2011年4月23日土曜日

Kew Gardens


4月後半、小春日和が続く中、初の遠出を試みた。
世界遺産のキューガーデンズは、ロンドンの南西部にある。
我々の暮す南東部同様、テムズ川の南側に位置するのだが、残念なが河南を横断する公共交通機関がないので、一旦電車でシティまで出て、乗り継いでようやく到着。
晴れて気持ちがいい。
いろいろ書くよりも写真で残す。

芝生でランチしていたら寄ってくるカモたち。
モネよりきれい。
とにかく花の色が鮮やか。
持って帰りたいピンク。


Minka House という昔の日本家屋(民家)も突然出現...



ガーデンは想像以上に広い。熱帯植物コーナーや、世界の珍品を集めた温室などもあり、
全部じっくり見ようと思ったら丸一日は軽くかかりそう。
半日過ごしたらもう汗だく。もう夏だな、これは。

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2011年4月20日水曜日

Kensington Exploration


イースターは繁忙期のうさこたち。
LSEでとなりのコース(location ではなく、同じ学部の似たようなコースで履修授業が被る事が多い、の意)にいる日本人Kさんと一緒に、Kさんのお住まいのエリア=ケンジントン散策に出かけた。
South East London に暮す私にとって、いわゆるWest のケンジントンは、
旅行者としてもほとんど足を踏み入れていない未知の世界。
Victoria 駅で待ち合わせして、散策を開始。
Elton John の自宅もあるという高級住宅地を歩いて、Slone Square 方面へまったり歩く。
この辺りは、高級ブランドの路面店が立ち並ぶ、日本で言うと青山?っぽいエリア。
昔、一度興味本位で来た事があったが、何も買わずに立ち去ったのを思い出した。
Kさんのお宅 in ケンジントンにちょっとお邪魔した後、近所にある Victoria & Albert 博物館へ、実に初めて入場。
ここはロンドンでも指折りの観光名所的な博物館ながら、ロンドン暦もう数えられない私は未だ足を踏み入れていなかった。
ちょっと入ってみたが、またゆっくり時間をかけて来ることにし、とりあえず1階だけを観て退場。
近くには自然史博物館、科学博物館など他にもあるが、いずれもイースター休みの親子連れが多いのか、長蛇の列が出来ていた。
その後、今日の目玉のケンジントンガーデンズ (Kensington Gardens)へ。
天気も良く、季節も良く、色とりどりの花が咲き、気持ちがいい。

写真より本物の方が格段にきれい。
芝生でピクニックをする人もたくさんいた。
ガーデンの緑と、色鮮やかな花を目にしながら、敷地内のケンジントン宮殿方面へ。
この近くには、日本をはじめ各国の大使官邸が並んでいる。
なんとまあ、静かで優雅で美しい家構え...。我々の住むSE13(郵便番号)とは雲泥の差ですな。
土地柄からか、このエリアは撮影NGなので、残念ながら写真はなし。
ケンジントン・チャーチストリートでランチを食べて、ハイストリートまで歩いて、Kさんと別れた。
High Street Kensington は、一度バスで通過したことがあったが、車窓の景色からしてもうカルチャーショックを覚える程、ハイソ(死語)なエリアに思える。
どこにでもあるようなブランド(ユニクロとかNEXTとか)のお店があるのだが、なんかもう店構えが他の地域とは違うような。
でも住んでみたら大変なんだろうか。物価高そうだし、TESCOみたいなお手頃スーパーも見当たらないし。
これまでSouth East London しか見て来なかったし、現在の家に越す前にウィルスデン(North)に一週間滞在しうんざりした後だったが、ちょっと別のエリアに目が向いた一日だった。
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インド旅行記 最終編


乾期にこれだけ緑色になる田園風景は珍しいのだとか。
ブバネシュワでの一日。
ホテルで朝食を摂った後(初日にも食べたオムレツをまた食べた)、病院を運営する団体のブバネシュワのオフィス(初日に登場したM氏の勤務先)を訪れ、会議室を借りて、病院での実地調査の資料をまとめる作業をした。
昼前にイギリス人のコーディネーターがチェンナイへと帰って行った。
オフィスでランチも用意してくれたが、カレーピラフにモロにカシューが入っていたので、バナナだけ食べて飢えをしのいだ。
結局フィンランド人と2人、夕方までそこで資料作りに明け暮れ、5時になったら車でホテルまで送ってもらった。
病院のある田舎にいたからか、ブバネシュワは本当に大都会に感じる。これでも、インドの都市の中では小規模な方なのだろうが。住宅街を見るのが久しぶりだった上、広い舗装された道路も新鮮だった。
ホテルに戻ると、すぐ傍のインターネットカフェに出かけた。
接続は相当遅いものの、病院のネットよりマシだった。まとめた資料をロンドンに送り、久しぶりに日本とロンドンの家族にもまともなメールを送る事ができた。
2人になった今夜もやはり、女同士ホテルのバーに出かけてビールを飲んだ。
インド最後の夜だけあって、この怒濤の一週間を振り返って、今となっては笑い話どころか、夢だったような、あの田舎の病院での出来事を語っては爆笑した。
最後の晩餐は、初日に恐る恐るローストチキンを食べたレストランへ行き、今度はカレーを頼んだ。
翌朝はまた車のお迎えを受け、空港へ。
来る時はデリー経由だったが、ブバネシュワから、今度はムンバイで乗り換えてロンドンへ。
このムンバイの空港がくせ者だった。まず、ブバネシュワから到着する国内線と、ロンドンへ向かう国際線のターミナルが離れているため、バスに乗るのに30分くらい待たなくてはならなかった。
さらに、国際線ターミナルに到着したはいいが、フライトの3時間前まで建物の中に入れてもらえない。
乗り換え8時間もあるんですが、路頭に迷えってことですか?!
近くのハイアットへ行って休んでたら?と案内係のインド人に言われるも、そんなのに金が出せるか早く中へ入れろこの〜(怒
お金ももうほとんど持っていなかったので、とりあえず落ち着く為にそこらの売店でサモサとコーヒーをフィンランド人に奢ってもらい、路上で食べる...。目の前を排気ガスぶんぶんの車列と、軍人の集団が過ぎて行く...。まったく、搭乗券も手元にあるのになんでこんな目に遭わなきゃならんのよ(泣)。
いざ時間になったら、とっとと出国審査を済ませて、中のバーに座り直し、またビール飲んだ。
しかし、、デリーの空港がかなりきれいで広くて立派だったので、ムンバイにも期待していたが、規模も施設も店舗も雲泥の差。ムンバイはヒースローのターミナル3と同じくらいいけてな(略)。帰りがデリーだったら、終わり良ければなんとかって、気持ちよく帰国の途につけたであろうに。
何はともあれ、こうして一週間強のインドの旅は無事終焉を迎えた。
ただし、お腹は帰国後も約一週間、壊れたままだった。
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2011年4月19日火曜日

インド旅行記 ⑥






Vision Centre 前の通り。
今日はいよいよ、5日間寝泊まりした病院を離れ、最初に飛行機で降り立ったブバネシュワに戻る。
午前中は、この病院が昨年近隣の町(といっても車で2時間)にオープンした、Vision Centre を見学した。Vision Centre というのは、いわゆる出張所みたいなもので、術後の患者のアフターケアをしたり、新規の白内障疑惑の患者を診察して本部の病院に照会したり、単に視力の弱い患者にはその場で眼鏡を処方して販売したりしている。
今は週一日のみの運営で、本体の病院から医師を派遣しているが、ゆくゆく毎日開院する方向らしい。
2時間くらい滞在した後、近隣に済む術後患者のお家をお邪魔し、インタビューした。
ここでも、甘ったるい紅茶が振る舞われたが、ごめんなさい、飲めなかった。
インド人の、あるいはこの地方の皆さんの、おもてなしには本当に頭が下がる。
道中、川が流れていた。
ランチは、病院2日目にもお邪魔した、ハンセン病の療養施設でまたいただいた。

もうすっかり慣れたインド式ランチ。右上、オクラ美味。
生野菜以外は全部食べた。あとバナナ。
食後はしばらくまったりと、今日は一人で引率してくれた病院幹部と話をした。
彼は、病院のトップだが、何日も密着していたせいもあってか、相当ぶっちゃけて色々な内輪ネタを披露してくれた。こんなこと聞いちゃっていいの?的な事まで.. (後でこっそりメモ)
一見、平和そうで、温和にまわっているような職場でも、やはり色々あるのはどこも同じだ。
トップならではの辛い立場もあったりして。
何日も寝泊まりして、ここまで組織を知ると、情も移るもの。我々はロンドンに戻ってレポート書いて終わりだが、この病院はこの先もここでこうして運営が続くわけで... 。それを多分この先見る事はないんだな、と思うと、なんか寂しい。
病院への帰り道、猛暑の緩和策に、ラッシーの飲めるお店に立ち寄ってくれた。
入った店はなんてことはない、お菓子やつまみを売っている売店だった。果たしてどこからラッシーが出てくるのかと思いきや、カウンターの奥にあるミキサーでその場で作ってくれた。
ラッシーは知っていたけど、実は生で見るのも飲むのも初めてだった。ヨーグルトが効いて、想像以上の美味しさ♡
ラッシーにカシューナッツが入っているとは!訊いて良かった。私のだけ、上に乗せるカシューを外してもらった。

ラッシー美味。上に乗っているのは何だ?ドライフルーツみたいなの。

病院に戻って、荷物をまとめ、ブバネシュワへ出発。来る時は車で7時間かかって到着したが、帰りは電車。
病院から最寄り駅まで車で1時間半くらいかかる道のりを、今日一日引率してくれた幹部が送ってくれた。
しかも道中、病院にほど近い彼の自宅へ招待してくれ、お茶とお菓子をご馳走になった。
例によって甘ったるいが、なんかもうこの人のホスピタリティに感動して、食べて飲んだ。
日没と共に電車に乗った。ブバネシュワまで5時間。満席の電車で眠る。
初日に泊ったホテルに再び舞い戻ったのは夜10時半過ぎ。私とフィンランド人とイギリス人、皆相当疲れていたが、閉店前ギリギリに駆け込み、ホテルのバーでビールで乾杯した。
冷房キンキンのホテルの館内と、きれいなレストランに清潔なシャワー。部屋ではテレビも映る。
やっと、文明社会に帰って来た!という実感が湧くと共に、病院での5日間がすでに夢のようだった。
数少ない英語放送の、Bloomberg TV を見ながら寝た。日本の震災について報道されていた。

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2011年4月17日日曜日

インド旅行記 ⑤



病院の食堂で朝食を摂る入院患者たち。
病院4日目。
午前から、フィンランド人と、現地コーディネーターのイギリス人が、2人で術後患者のご自宅訪問インタビューに出かけると言った。
私としては、炎天下の外出よりは室内にいられる方が有り難かったので、病院に残り、入院患者のインタビューをすることにした。(病院も冷房ないけど、外よりマシ)
患者はほとんど60を過ぎた年配の方ばかり。本当に、栄養不足で白内障を発症するわりには、年をとっても足腰しっかりして元気な人が多い。
経理の男性職員が通訳でついてくれたが、私が英語で質問するのを訳する時、患者の現地語を英語に訳す時、明らかに訳にバイアスがかかっているのが空気から伝わってくる。
まあ仕方ない。『内部の人間による通訳』を、リサーチの limitation としてレポートに記述する。
昼前にはこの作業が終了。財務担当の職員にP/Lの細かい点を質問していたが、まだ外回り組みが帰ってくる様子がない。
PCを使って資料をまとめようかな、と言うと、ノートパソコンを貸してくれた。かなり遅いけど、インターネットも使えるように、何て言うの、あのUSBの穴に差し込む式のネット接続ツールも貸してくれた。さらに空室を一室あてがってもらい、私だけの為に巨大扇風機もまわしてくれ、一人オフィスができあがった感。しばし、VIP待遇に酔う。
少々遅いランチの後は、入院患者らも帰ってしまったし、スタッフインタビューも済んだので、病院内で事務作業をして過ごすことにした。
それにしても暑いので、インドの国民ドリンク(?)なのか、みんな飲んでいるスプライトを飲む。普段、こういう甘い炭酸は滅多に飲まないが(コーラゼロは例外)、郷に入ればナントカっていうか、インドの地で飲むと、なんだか妙に美味しく感じる。

病院の裏、泊った部屋のバルコニーから。
午後まとめた情報を元に、即席プレゼンを作成し、夕方病院のトップとシェアした。
こういうちょっとしんどい作業を、フィンランド人が全部やってくれるので助かる。
暑さのせいでぐだぐだと昼寝(夕寝?)した後、陽が暮れるとまた屋上へ。
昨晩同様、真っ暗な中で、病院幹部と一緒に飲んだ。
ビールのおつまみとして出される、顔くらいの大きさのエビせんみたいなのが、たまらなく美味しい。ビールのために作られたんじゃないかと思うくらい。(実際そうなのか?)

今日は酒の席で、国の歌を歌ってとリクエストがあった。
フィンランド人が、なんかフォークみたいなのを歌った。私が好きなロシアのフォークにちょっと似ている。
インド人は、いかにもインドな、踊るマハラジャでかかってそうなふにゃふにゃした歌を歌った。
日本人の私は、この流れだとJ-POPより演歌か... と判断し、八代亜紀と迷った挙げ句、石川さゆりを歌った。『天城越え』は、アカペラではちょっとキツそうだったので、『津軽海峡冬景色』を歌った。これが、思いの外好評で、これは演歌で...と説明したところ、J-POPのリクエストがあったので、モー娘。の『青空がいつまでも続くような未来であれ』を歌った(マイナ〜 :p)。
ここまで来ると、もう食べ物のどうこうはあまり気にならなくなっていた。
3日目以来、怒濤の勢いでお腹を壊しまくっていたが、もう食べてしまっているから今更どうしようもない。どうせ壊すなら食べて壊してやる、みたいな。
生野菜とコップの水は避けているものの、コップのビールには抵抗できず、飲む。アルコール殺菌作用に期待しつつ...。
これが病院で最後の夜だった。楽しい宴だった。
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2011年4月15日金曜日

インド旅行記 ④


病院3日目は、病院内でスタッフのインタビューに専念した。
目的は、この病院の経営モデルのコンサル資料収集。インタビューの質問は全て open end questions (答えがイエス、ノーだけで終わらないようにデザインされた質問)で、現状の病院運営、患者サービス、および今後の個人のキャリアプラン等について、とにかくスタッフに語らせることが大事。
個人情報が絡む事、正直な答えが欲しいため、通訳は使えない。よって、英語を話すスタッフのみに限定されてしまうため、この辺りが本プロジェクトのデータ収集における大きな制約となってしまうが、まあ仕方ない。
外は連日40℃オーバーと思われる暑さなので、院内にいられて逆に助かった。冷房こそないが、扇風機をまわしてくれる。
病院での我々はかなりの好待遇でもてなされていた。寝室や食事を無料提供してもらっているのはもちろん、時折コーヒー(甘いので飲めないけど)を差し入れしてくれたり、作業がしたいと一言申し出ると、ノートパソコンを貸してくれたり、また自分だけのために扇風機をまわしてくれたりもした。扇風機と言っても、日本にあるようなコンパクトなものではなく、小型の冷蔵庫くらいの大きさの、かなり燃費の悪そうなものである。最初はその埃をかぶった扇風機から出てくる風を信用できず、暑いのを我慢して風を避けていたが、3日目にもなるともうどうでも良くなってきた。
おまけに、飲酒が(まして女性の)一般的ではないこの地域で、我々には毎晩冷たいビールとおつまみが振る舞われた。
食事も同様。次第に我々の好みを考慮してくれるようになったようで、もはや手を付けないものは生野菜のみになっていた。
グラスは相変わらず信用できず、ミネラルウォーターは大きなボトルから(ロンドンから持って来た)小さいマイボトルに入れ替えて飲んだ。また、食事は先に食卓に皿が並べられ、一品ずつ調理担当のスタッフが盛りに来てくれるのだが、時折濡れている皿は、こっそり一人テーブルの下でナプキンで拭いた。
また、一緒にやって来た西洋人が郷に従い手で食事を摂る中、私一人最後までスプーンとフォークを手放せなかった。


これは朝食で出たサモサ。前日夜のおやつに出て、美味しさに感動をアピールしたら、朝も登場。
気を遣っていたつもりだったが、この日から、例に倣いやってきた。お腹がおかしくなった。
噂通り、予想はしていたものの、こんなにお約束通りにやってくるとは。
決して胃腸は弱い方ではない。水も気を遣い生野菜も避けているのに、私一人真っ先に当たった。
今思えば、スプーンとフォークを放棄し手で食べたほうが清潔だっただろうか。あと、暑さに負けて出されたスプライトをグラスから飲んでしまった。でも一度だけ。
食事を楽しみ始めただけに、ここでお腹に見舞われるのは痛かった。外出がなかったのがせめてもの救い。
この日は午後、大事件があった。
前述の通り、ここにはシャワーがなく、水道の蛇口からバケツに水を溜めて水浴びをする方式のため、トイレと洗面台の脇に大きめのバケツと柄杓が置かれていた。もっとも私はそれらも使わず、大きなペットボトルに水を為、頭からかぶっていたのだが。
そのバケツが位置的にちょっと邪魔だったので、トイレに入る際に手で持って動かした。それが惨劇の始まりだったのだろうか。
お腹をこわしているので、20分後、再びトイレのドアを開けると、そこにあったのは...
ありまみれで真っ黒になったバケツと柄杓!!
ぎゃあああああ、今思い出すのもうげー無理無理無理ムリむりーーー!!!
20分前とは変わり果てた姿になったバケツに、もうわけがわからずただ絶叫。
驚いて飛んで来た同部屋のフィンランド人も絶句。
逃げ惑う私の姿を見て、さすがにどうしようもないと思ったのか、全て彼女が始末してくれた。
彼女は以前にブラジルで7ヶ月間滞在し、その間ハンモック生活をしていたらしく、虫には慣れていると言っていたけど... いやそれにしたってねぇ。本当にもう頭上がりません。
ショックからの立ち直りにしばし時間を要した。
陽も暮れる頃、病院主催の "cultural programme" を見学ということで、病院スタッフ数人と共に車で出かけた。
来る時は気づかなかったが、車で5〜10分は知った所に、割と大規模な村(というより町)があった。そこを通過しさらに15分程走った集落で下車。
もう陽もどっぷりと暮れて暗闇の中、路上に人々、犬、そして牛が溢れかえっている。
照明が煌煌と照らされたそこには、プロレスのリングのようなイベント会場が出来ていて、地元の人たちが集まっている。一体どこにこれだけの人数が暮らしているのか、ざっと500人以上はいるかと思われる。さすがインド。

一番前に用意されたVIP席(?)に通され、着席するなり、群衆が一斉に我々の写真を撮り始めた。外国人が珍しいのか...。ちょっと気持ちいい。
始まったのはプロレスではなく、この地方の民族音楽&歌のショウ。
出演者の男性4人は、皆太鼓を持っているが、これとは別にバックに弦楽器ののっぺりした音楽がかかり、、リビアの車内でさんざん聞かされたコーランのラジオ放送みたいなのを思い出した。

現地語がわからないので、その場はただ聞き流していたが、後から聞いた話だと、この歌の歌詞は、『白内障は怖いです。予防の為にも、病院主催のアウトリーチキャンプに行きましょう』的な宣伝になっているらしい。すごい、凝ってる!
一時間ほどの演目を鑑賞。帰りもまた、我々は盛大な見送りを受けた。
見知らぬ地元民が、車に乗った我々全員にジュースをくれた。
しかし、見るからに身体に悪そうな原色オレンジの液体で、ストローもささっていないので、申し訳ないがパス。私の分はフィンランド人にあげた。
ここまでくると、こうしたおもてなしを悉く受入れられないことが非常に申し訳ない。
発車間際まで、車は四方八方、カメラを持った地元民たちに囲まれ、なんだかわからないが声をかけられまくっていた。まるで芸能人になった気分。ちょっと気持ちいい。
帰り道、同行した病院スタッフの奥さんの誕生日プレゼントを買うのに付き合い、サリー(インドの民族衣装)の店に立ち寄った。
基本、店中に積まれた生地の中から好きなデザインを選び、採寸して、オーダーメイド。
2日くらいで出来るから、と勧められたが、これと言って気に入った生地がなかったのでパス。
値段はデザインや素材によってまちまちで、安いものは1,000円くらい、高いのだと4,000円くらいしたと記憶している。
病院に戻るともう10時をまわっていた。
皆疲れていたので、このまま就寝かと思いきや、屋上に通された。
テーブルがセットされていて、間もなくビールとおつまみが出てきた。
病院幹部と、LSEの学生。照明もない屋上で、星空の下、飲み会が始まった。

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2011年4月13日水曜日

インド旅行記 ③


病院の最上階の、従業員の会議室(および多目的室)横にある、ゲストルームに滞在。同じ階にある食堂で、専任の調理スタッフが、入院患者とスタッフの食事を毎食調理し提供しているようだ。我々に用意された朝食は、白い焼いていない食パンに、添加物たっぷりのイチゴジャム、ゆで卵、バナナと、玉ねぎと香草の入ったオムレツだった。オムレツのみ、しごく美味しく感じたが、他はあまり口にすることができなかった。さらにブラックコーヒーを頼んだら、ブラックティーが出てきて、これもパス。

インド3日目にしてフィールドリサーチの本格始動。朝から病院のトップに連れられて、同病院が地域の田舎の村々で開催する outreach camp に向かった。Outreach camp とは、その名の通り、病院本体から離れた地域に暮す人々にもサービスを届けるため、各村々の集会所などを利用し行ういわゆる出張眼科検診。そこで訪れた村の人々20人程のインタビューを行った。

その後、近所の盲学校を見学した。小中学生、高校生の前半くらいまでの年の頃の、目の見えない、あるいは耳の聞こえない子供たち60人程がそこで学んでいた。正直、この貧しい村で、目が不自由だったりしたらこの先どんな機会に恵まれうるのかを考えると、こちらの方が少々精神的に詰まってしまった。我々の訪問を歓迎し、何人かの子供が歌を歌った。驚く程上手だった。皆礼儀正しい。
Outreach camp が行われていた村の集会所の前の通り。噂通り牛がそこかしこに。
昼過ぎに、今度は別の村の集会所で開催されている Women's Sensitisation Camp というイベントを見学した。これは病院が開催する女性の地位向上と教育を目的とした、眼の病気(主に白内障)に関する教育イベント。ボランティアの講師がイラストと文字が並んだ、スライドならぬ大判のカレンダーのような教育マテリアルを手に持ち説明している。ただ、参加者のほとんどは文字が読めないらしく、決まった数人を当ててスライドもといマテリアルに書いてある内容を音読させていた。ここでも熱烈な歓迎を受け、花で作った首飾りをもらった。
一時間程滞在後、近くに住んでいる、少し前にこの病院で白内障手術を受けたという子供の家を訪ねた。子供の白内障も多いのは、栄養不足(特にビタミンB?)の現れである。
ようやくこの日の訪問先を全てまわり終わり、ランチタイム。最後の村と病院の間くらいにある、この病院の母体である慈善団体がメインビジネスとして運営するハンセン病のリハビリ施設を訪れ、ランチをいただいた。
改めてカシューナッツが入っていないことを確認し、生野菜以外、火の通った料理は口にした。暑いせいかあまり食欲はないが、なんとなくインド料理が食べられるような気になってきていた。
相変わらずグラスは使わず、出された冷たいミネラルウォーターを自分のペットボトルに入れて飲んだ。
ゴーヤのフライ(中央)に感動!!いやこれやかなり美味しかった。
右のせんべいみたいなのも癖になる。
ランチをいただき病院に戻ると、暑い中動き回った疲れで蒸し風呂のような部屋で1時間程昼寝した。
夕方からは病院スタッフのインタビューを開始した。久々に聞いたインド人の英語が聞き取り難いので苦労した。
病院での2度目の夜。インド人全般か、この病院の仕事のサイクルなのか、晩ご飯の時間が遅い。ランチも遅かったので困らなかったが、7時くらいからおやつを食べ、本格的に食卓につくのは10時をまわる頃。

夕方からは病院スタッフのインタビューを開始した。久々に聞いたインド人の英語が聞き取り難いので苦労した。
病院での2度目の夜。インド人全般か、この病院の仕事のサイクルなのか、晩ご飯の時間が遅い。ランチも遅かったので困らなかったが、7時くらいからおやつを食べ、本格的に食卓につくのは10時をまわる頃。こんな時間に食べたら太るよ。
この段階まで来ると、少なくとも病院の食事はカシューナッツなしで作られていると信頼できるようになり、食事の時間が楽しみになってきた。
この日の夜遅い食事は上の写真のような献立。まず、写真上中央の豆の煮込みは、辛くないカレー味で、ほぼ毎食出てくる。味がぼんやりとしていてあまり好きではなかった。左のオムレツも頻繁に登場したが、これは普通に美味しい。大皿に乗っているのはナンとタコスの皮の間の子のような包みものと、オクラとジャガイモのややカレー風味な炒め。オクラなんて普段食べないが、これは相当美味しかった。
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2011年4月12日火曜日

インド旅行記 ②



7時間のドライブ
一夜明けた。ホテルの朝食は基本インド料理中心だった。日頃朝からカレーを食べる事に抵抗はないが、インドカレーとなると勝手が違うのでパス。フルーツ等もあったが、確実に火が通ったものを求め、目の前で焼いてくれるオムレツを食べた。
コーヒーを頼むと、有無を言わさずミルクと砂糖たっぷりの甘ったるいカフェオレが出て来た。実際にはホットミルクにネスカフェの粉末を溶かし、さらに砂糖を投入しているのではないかと思われる。インドではコーヒー=これのようだ。ブラックコーヒーは、Black coffee, no milk, no sugar と強調しないと出て来ないということが3日目くらいにわかった。
Bhubaneswar から我々の最終目的地である Sonepur という町にある病院までは、車で7時間程度と聞いていた。年のために前日、ホテルと同じ通りにある薬局で酔い止め薬を買った。二錠で6ルピー(15円くらいか?)だった。朝8時半に病院を運営する団体の車が我々を拾いにやって来た。通勤の車、バイク、人間が溢れるバスを横目に高速道路のような道を少し走り、昨日ミーティングしたMを拾って車内は運転手含め5人になった。
さらに少し走ると、休憩を兼ねてMが自宅に我々を招いてくれた。Mの家は門や庭こそないが、石造りで、車窓から見えた家々と比べてかなり大きく思われた。三世代同居のようで、部屋数もかなりあった。どの部屋にもドアはない。
広めの廊下のような空間に通され、椅子を用意されて座った。間もなくMの次男(大学生)がお茶とお菓子を持ってやって来た。お茶は例の甘いコーヒー。お菓子は自家製のようで、チーズケーキのように形が整ったライスプディングのように見受けられた。材料がわからないので手を付けたくなかったが、それも失礼かと思い、二切れのうち一つの隅っこ5ミリくらいを削って口元まで持って行った。さらに思い切って口にも入れてみた。カシューは入っていない様子だが、いずれにしてもスパイスが口に合わず、結局それ以上は手を付けられなかった。『アレルギーがあるので』と言い訳したが、少々罪悪感。
他のインド人に違わず、Mの次男もまた人懐っこいというか、お菓子を持って来たまま去ろうとせずにその場に残り、訛りのキツい英語で我々女子3人と会話を楽しんでいた。(私はこのお菓子との攻防で会話を楽しむ余裕はなかったが)
休憩後は長いドライブに入った。道中、何もない道を通ってはちょっとした繁華街(200メートルあるかないかといった規模だが)を通り向けた。これがいわゆる地方の村々の中心地なのか。驚いたのは、こうした村の商店街の各所に TATA DoCoMo という看板を見つけたことだ。TATA はインドのいわゆるなんでも商社であるという認識があったが、DoCoMo はあの日本のNTTドコモ?インドで携帯サービスを提供しているなんて知らないが、TATA と提携しているのか。(後で調べたらやはり日本のドコモが加担しているようだった)
途中、両側は草むらしかないような道路の脇のブッシュでトイレ休憩を経て、夕方4時前にようやく目的地の病院に到着した。想像していた通り、何もない所に突如作られた病院といった印象だ。
我々が車から降りると、日曜の午後にも関わらず病院スタッフが総出で迎えてくれた。手作りの花束と共に。
病院は3階建てで、最上階のゲストルームにフィンランド人のTと私、一階の本来患者用の個室に L が泊ることになっていた。我々の部屋にはベッドが2つ、天井にファンがあり、バスルームに洗面台とトイレとシャワー、ではなく、トイレはあるがシャワーはなかった。代わりに普通の水道の蛇口が壁に付いており、床には大きなバケツと小さなバケツが1つずつ。前夜ホテルのシャワーで見かけたものと同じセットだった。大きなバケツに水を貯め、小さなバケツでくみ出して水浴びをするということか、とようやく察しがついた。
間もなく遅いランチが用意された。病院には事前に私のカシューアレルギーは伝えられていたようで、心配無用と言われたが、やはり心配だった。出て来た料理はやはりカレーが3〜4種類。カレーはもとより、まずは食器の衛生面がまず心配だった。生水を飲むなと言われているのに、これらの食器類は生水で洗われており、水滴が付いている。どうやって生水を回避できようか。ミネラルウォーターが用意されていたが、このコップで飲んでは意味がないではないか。水に関しては、ロンドンから持って来たエビアンの空ボトルから飲む事に決めた。(自分ひとりだけコップを使わないという行為をさりげなくやるのに時に苦労した)
とは言っても、お皿を使わず食事はできないので、ここはもう潔く目を瞑ることにした。
インド人は、噂通り手で食事をしていた。我々が外国人だからか、スプーンとフォークも用意してくれた。インドに数ヶ月暮らしているL は慣れているのか、問題なく手でカレーを食べていた。T も以前にインドをバックパッカー旅行した経験も手伝ってか、抵抗なく手でカレーを食べている。液状のカレーとご飯を手で混ぜそれを口に運ぶという行為が私はどうにも受入れ難く、迷わずスプーンを使った。テーブルの下でこっそりナプキンでスプーンを拭きまくった。
全種類のカレーを口にしてみた。食べられそうだったが、一言で言って、正直どれも口に合わなかった。生野菜は最初から無視した。ドライブの疲れもあり、ご飯だけ半分くらい食べ、残りはほとんど残してしまった。
その後は病院を一周して施設を見たり、スタッフとミーティングをしたりして夜まで過ごした。時差ボケもあってか、とにかく眠くて眠くて仕方がなかった。インド人全般の夕飯の時間が遅いのか、ディナーに呼ばれたのはもう10時をまわるころだった。昼と同じようなカレーが若干バリエーションを変えて登場した。お腹が空いていたので、昼間よりはしっかり口にした。
夜になると頻繁に電気のパワーダウンがあった。その度に部屋の天井のファンも止まってしまう。30度以上ある室内で、真っ暗闇の中、そよ風も拭いて来ない部屋で、虫が飛ぶ音に怯えながら眠りにつくのは容易ではなかった。ロンドンから持って来たマイシーツにくるまって、ひたすら時間が経つのを待った。
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インド旅行記 ①

我々のプロジェクトの概要を書いておく。
インドのオリッサ州という、インドの中でも最も貧しいと言われるエリアで、最貧困層(BOP) の為の主に白内障の治療に従事する慈善団体が運営する眼科医院について。
1. この病院に昨年末、某慈善団体によるコンサルプロジェクトが新しいビジネスモデルを提案した。そのモデルが病院、および地域社会にもたらす影響の分析
2. この病院がこの地域の社会にもたらすインパクトを査定するモデルを提供する
という二点。
我々は病院を訪問し、さらに滞在させてもらい、病院の行っている色々な取り組みを視察したり、スタッフや患者にインタビューをしたり、いわゆる現場リサーチという形で乗り込んだ。
フィンランド人のT(女性)と私は、ロンドンからまずデリーへ。デリーでビザの手続きをした。
予想以上に簡単だった。入国審査のカウンターの脇に、『VISA ON ARRIVAL』なる別カウンターがあり、フィンランドと日本を含む8カ国のパスポート所持者はそのカウンターで手続きする。事前に用意しなくてはならないものはパスポートサイズの写真一枚と申請代金 USD 60のみ(ドルがなかったがその場でルピーに両替して支払い可能)。書類もその場で記入する。
(ただし、この到着時ビザ取得には回数や期間など制限があるので各自確認してください。)
デリーの空港で一晩を明かした後、さらに2時間程の空の旅を経て、Bhubaneswar という地方空港に到着。地図で言うとインドの右の上の方で、メジャーな都市で近いのはカルカッタとか。
空港でこの慈善団体の眼科病院プロジェクトの責任者M(インド人)と、昨年ビジネスモデルを提供した別団体のインドコーディネーターL(イギリス人)に迎えられる。Lは昨年LSEを卒業したまだ若い女性で、卒業後インドへ長期滞在しようとやって来たところ、今の仕事にありついたらしい。
空港から15分程度の街のホテルに案内されチェックイン。これらの手配も既に恐らくLが済ませていてくれたようだ。
到着するなり荷物を置いて、ホテルのロビーでM、L、Tと4人でミーティング。今回のプロジェクトと我々の滞在目的などについて改めて話し合った。
正直なところ、渡航が急に決定したこともあり、私の本プロジェクトに関する知識および取り組みは中途半端で、この会合でようやく全体像が見えて来たといった感じだった。
事前にMやLはじめ現地の担当者と連絡を取ることもしていなかった為、前知識ほとんどなく(多少はあったがかなり表面的)、いきなり現場に乗り込んだと言っても過言ではない。
ここで一泊し、明日は揃って朝から眼科病院のある地方の町へ車で移動する。
余力を残す為に夕方を前に1時間程でミーティングを切り上げた。
Mは去り、残った我々女子3人はホテルの前の道をさらっと視察した後、これから一週間の病院生活への出陣式として館内のバーでビールで乾杯した。
その後、ホテル内のレストランで食事をした。
元来私はインドカレーが大好きだった。しかし6~7年前、東京のインド料理レストランで野菜カレーを頼み、一口食べて全身の痒み、発熱、さらに窒息と進行する症状に見舞われ、数時間のたうちまわった挙げ句、最後は病院送り、注射と点滴を受けてようやく回復した、という体験を二度もした。一度目はたまたま当たったと思い深く考えていなかったが、二度目となるともう原因がカレーにあることは明白。以来、インド料理を口にすることはなかった。
よって、インドに来る上での最大の懸念は食事だった。自覚しているアレルギーはカシューナッツ(上記と同様の災難に見舞われた経験有り)のみで、インド野菜カレー事件は果たしてカシューが入っていたためか、それともインドのスパイスの何かがまずいのか、原因究明できていない。皮膚科でアレルギーテストをリクエストした際にはナンダカンダ理由をつけて断られた。
よって、今回インド渡航時も『インド料理は避ける』という無謀な目標を立てていた。
初日のディナーは、TとLがナントカというインド伝統料理みたいなのを頼む中、私一人 Western Menu の項目から、チキンの丸焼きとマッシュポテトを頼んだ。期待していなかったがとても美味しかった。
部屋は、インドから想像していたものとはほど遠く、モダンで清潔だった。シャワーに大きなバケツと小さなバケツが2つあったが、使い方がわからず無視した。心配していたトイレットペーパーも、少ないがあった。外は暑い(到着時37度)が室内は冷房が強過ぎ、結局切って寝ることにした。
テレビをつけてみた。英語のチャンネルがあるだろうと踏んでいたが、ほとんどがインド現地語の放送ばかり。いかにもインド的なお祭り騒ぎ系のドラマもやっていたが、ようやく見つけた英語放送の Bloomberg UTV を見て過ごした。
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インド訪問


先週一週間、インドを訪問していた。
正確には先々週から全行程約10日間の旅だった。
目的は、このブログにも度々登場してきた BOP ビジネスのコースのプロジェクトの為のフィールドリサーチ。
全8人のチームで取り組んでいるのだが、うち2人分の旅費が大学を通じて負担されるというなんという気前の良さだマネジメント学部は。(自分の所属する地理&環境学部では考え難い)
当初、私はインド行きを名乗り出てはいなかった。
だってインドカレーアレルギーだし、ヨガもやってないし、牛肉大好きだし、インドという国に正直特に何も魅力を感じない。他に行きたそうなメンバーもいたしね。
ところが旅程がなかなか固まらない中、名乗り出ておきながら急に行けなくなったと言い出す全くふざけた無責任なやつらや、本当か嘘か全財産をすられて金がなく行けなくなったなどと抜かし出す輩が出て来た。行くメンバーも決まらなければビザやら何やら手続きにも時間がかかる。我々のチームのフィールドリサーチは計画倒れに陥りそうな様相を呈していた。
そこでひとり行く気満々だった学生が調べたところ、『フィンランド人、日本人およびその他数カ国(主にアジア)のパスポートはインド到着時にビザを申請・取得できる』という情報を仕入れて来た。
外交に関してどうこう言う場ではないが、チームのメンバーを見渡すと、半分は中国人(何処にせよビザ取得は厄介な作業)、あとは財産をなくしたアメリカ人ともうひとりイギリス人(インドとの関係を考えると不思議だがイギリス人は事前にビザを申請しなくてはならない)、プラスフィンランド人と日本人という構成。
これはフィンランドと日本に白羽の矢が立つ... ではないが、行けと言うことなのかなという気すらしてきた。
自分がインドに行くということを知ったのが一週間前、航空券が手配されたのが出発前々日、前日にビザ申請の為のパスポート写真を撮り(到着時の申請については実際若干懐疑的だった)、マラリアの薬を調達し、急遽夏服を数着購入。
どたばたの状態で、一週間しか暮らしていない新居に同居のパートナーとペット計3人を置いて行くこととなった
エアインディアの機内食。やっぱりカレー。
つづ


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